例えば雑貨屋だったり、古本屋だったり、お気に入りの路地とか景観とか、僕の場合、そういうものは大体が自分の足で稼ぐことが多い。僕は散歩が好きで、時間があるときなんかは適当に電車に乗り、適当な駅で降りて、適当にぶらつくなんてことをよくする。大きな目的のない単なる散歩の中で、自分の好きなものを見つけ出すのが、いつしか習慣になっていた。
喫茶店もそうだった。特に前調べなんかはせず、気の向くままに街を歩きながら、珈琲が飲みたくなったらその場で喫茶店を探す。効率的ではないけれど、自分で捜し当てたという小さな達成感は、そのお店の珈琲の味を、少しばかり引き立ていたのかもしれない。しかしこの方法は、いかんせんフラフラ歩いているものだから、また行こうとしたとき、迷わずたどり着けるかという不安もある。最近はiphoneが、この弱点を補ってくれていたりする。
さてそんな僕はこの夏に一冊の本を買った。「東京ノスタルジー喫茶」というこの本は、別段熟考して買ったわけでもなく、背表紙のタイトルから「あぁ、東京のノスタルジックな喫茶店が載っているのだろうな」と、それくらいの感想を抱きながら手に取り、レジへと向かった。先に書いたように、僕は基本的に足で稼ぐ人だから、この類の本を買うというのはものすごく珍しい。秋に桜が咲くような、今年の日本の気候の珍しさからすると、少し見劣りするかもしれないけれど。
カフェ好きの友人にこの本を見せたとき、「この本は大丈夫」とお墨付きをもらったので(あまり大丈夫でない本もあるのだという)、その言葉に信頼を寄せながら、制覇を目指しつつ都内をうろつき回る日々が続いてる。

和なカフェもあれば、奇抜なカフェもあり、あぁカフェだなと寸分も疑う余地もない典型的な雰囲気のカフェもある。一口にカフェといっても趣は様々で、それはこれまでの自分のカフェ歴からして気付いていいはずの部分ではあるけれど、集中的に通っているとその差異をより明確に観察できて、とても面白い。
そんな中、この本で一番眼を惹いたのは、クラシックを聴くことを目的とした喫茶店が存在するということだった。いやもちろん、店内BGMとしてクラシックやジャズを流すお店はあれど、本格的な音響設備を整え、おしゃべりをするとかっていうのでなく、音楽を聴くことを主体とした喫茶店なんてものがこの世に存在するなんて事自体知らなかったわけで、この本に載っているどのお店よりまず、クラシック喫茶に是非とも訪れてみたいと思っていた。その意気込みたるやすごいもので、週末が近づく度に行こう行こうと思って心の準備をしていたのだが、意気込みとは相反して一度目の来訪は本を買ってから二ヶ月経ってからだったのである。そういうこともある。
渋谷は道玄坂から一本折れて、細くなっていく路地を歩いていくと現れる「名曲喫茶ライオン」は、ライオンというその名から受ける、狩りをしたり雄叫びをあげたりという荒々しい印象でなく、むしろ大きな欠伸をしながら日光を浴び、気だるい午後を過ごしている姿に近かった。
喫茶店のルールというのは至極簡単だ。お店のドアを開け、席に着き、注文をし、運ばれてきたものを楽しむ。喫茶店というものが出来た時から恐らく殆ど変わらぬこの手順は、ダーウィンが研究していたらその進化の無さに飽き飽きしてしまったかもしれない。どのお店に行ってもまず何も迷わず、長年行われてきたこの流れに乗ればいい。しかし初めて訪れるクラシック喫茶は、ドアを入った瞬間に、これまで訪れたどのお店とも違う雰囲気を漂わせていて、そこには何かこのお店の独自のルールがあるのではないかと思わせられた僕がとってしまった行動は、店員に「すいません、初めてなんですけど」と聴くことだった。店員は一瞬の間をあけて(僕は一瞬の間に何十回か、この恥ずかしさを噛み殺したわけだが)、喫茶店の当たり前のルールを復唱した。つまり、席にお着きになったら注文を伺います、ということだった。それは、至極その通りだった。
このお店には、毎日午後3時と7時に定時プログラムがある。他の時間はリクエスト曲を流したりするのだが、この時間だけは決まった音楽が流れ、僕が訪れたこの日はショパンの日であったが、珈琲と共に運ばれてくるパンフレットを見ると10月15日のプログラムは何とドビュッシーのピアノ曲集であるということで、一度目に訪れたその日に、二度目の来訪が確定したわけであった。
この日は友人との約束があったので、店内の雰囲気を肺の奥まで吸い込むことなく、その場を後にした。
二度目の来訪となった10月15日。
今日はドビュッシーの日ということで、さぞや沢山のお客さんが来るであろうし、座れなかったらどうしようという不安から3時より大分早い時間に入店をした。結果的にそこまでお客さんはいなかったわけで、つまりドビュッシーは今の僕のトレンドというだけであり、世界中の人がドビュッシーを好きであるという僕の勝手な思いこみから発生した取り越し苦労ということだったのだが、おかげで店内をゆっくり観察できる時間がとれたので、良かったと思っている。
お店に入ってまず眼を奪われるスピーカーは、コンサートホールにあるパイプオルガンの様な、その存在感を一切控えようとしない、そんな堂々とした佇まいでそこにいた。店内のどの位置にいてもその存在を感じずにはいられないように、物の配置を考えたのだろうと思う。
スピーカーを始めとして、その下に位置するレコード及びCDの戸棚は、申し合わせた様に茶一色で、なぜか異彩を放つ熊の木彫りも、もちろん茶色だった。しかしこれだけつぶさに眺めていると、一言で茶色といっても幅があることに気付く。元々の色も違っているのだが、オレンジ色のランプで照らされて暖かみを増すものもあるし、スモークがかった窓から入ってくる太陽の白い光で、焦点のあったごまかしのない色を見せるものもあった。
サラウンドシステムのように、店の所々に配置された扇風機は、エコだエコだと騒がれる前に世間で使われていた古めかしいタイプのものであることは一目でわかる。羽を回し風を送るという、ただそれだけの目的の為に働いていた。一台だけ、風の送り方を忘れてしまった扇風機があり、少し寂しい気持ちになった。
注文した珈琲は、おいしいともおいしくないとも言えない、とても中性的な味わいで、それは平日の朝に淹れるインスタントコーヒーと似ていた。朝だからとりあえず珈琲というただそれだけの意味で飲むように、喫茶店だから珈琲という、単なる記号として存在しているような味わいだった。しかしこれは「この店の主役はあくまで音楽だ」という、何を優先するかということを明確に決めて運営しているある種の潔さが感じられた。
そうやって店内を観察していると、定時のコンサートが始まった。
一曲目は「月の光」。いきなり本命の曲が流れたため、少し心の準備が間に合っていなかったが、最初の一音を聴いたときから何か耳に引っかかるものがあった。このテンポ、音の強弱、どこかで聴いたことがある。もしやと思い聴き進んでいくと、もしやは確信へと変わる。店員さんが最初に言っていた奏者の名前は聞き取れなかったが、まず間違いなく、モニス・アークの演奏だった。このモニス・アークというのは誰かと言うと、僕は「月の光」の収録されたCDを数枚程所有していて、中でも一番気に入っていたのがこのモニス・アークという人の演奏だった。この人の演奏は、僕が頭の中で思い描く「月の光」の物語とぴたりと合うし、またドビュッシーが経験した叶わぬ憧れというものを、一音ずつゆっくりと、大事に大事に奏でている気がするのだ。年が明けてから何度も聞き込んだこの演奏を、よもや僕が間違えるはずはなく、そしてまさかこんな所で、渋谷の街のど真ん中で逢えたという、そんな喜びと驚きが、月の光をより一層輝かせて僕の耳に届いていた。
後に続くは「アラベスク第一番」や「亜麻色の髪の乙女」でゆっくり心を落ち着かせながら、「ゴリウォックのケイクウォーク」で空気を軽快に踊らせたりなど、ドビュッシーのピアノ曲を十分に堪能した。

この日僕が座った席は、窓際の席で、そのせいか右半身でしか音を感じられなかったのだが、それはそれで面白い音の聴こえ方だった。ドビュッシーの曲を右耳で聴きながら、左耳では窓の外の喧噪をとらえ、二つの世界が混じり合ったそれは、浅い眠りの中で見ている、現実世界の感触を伴った夢と似ていた。店内には恐らく、音を最適に捕らえられる場所が存在するのだろうが、僕はあまりそういうことを気にしない。
そう、僕は音楽を聴くに当たり、こうでなければならないという拘りを殆どもたない。こういう場所に来てレコードで聞くのもいいし、家で粗末なプレーヤーで聴くのもいい。ウォークマンで聞くのもいい。ヘッドホンで聴くのもイヤホンで聴くのも、特に拘らない。また周りの環境もそうだ。絶対静かでなければいけないというのもない。だから僕は朝のバスでジャズを聴くのだ。僕にとって朝のバスは、程良い騒音と車内に充満する眠気と気だるさが、どこかジャズのスイングを引き立てているように思えるのである。また先日発見したのが、とてもではないがバスのエンジン音で静かなピアノ曲というのは聴こえるものではないのだが、アイドリングストップ中だけは、強風が突然ピタりと止むような異様な静けさを生み、そこで控えめにイヤホンから流れてくるピアノの音が、とても綺麗に思えたのだ。色々の聴き方、色々の環境の中で、一辺倒でない音の楽しさを見つけるのが、僕は好きだ。
そして音楽の聴き方は、それでいいと思っている。例えばただ一つの思いを込めて作られた曲でも、その作曲家がその”一つ”を練り上げるまでに、恐らくは沢山の経験をしていたのだと思う。様々な人との出会いがあって、景色を見て、美味しもの不味いものを食べて、多分珈琲を飲んで、寝て起きて、そういう一つ一つの積み重ねの上に曲が成り立つのだと思う。またその曲を奏でているときも、周りには人がいたはずで、例えば使用人がドア越しにそのピアノ曲を聴いて感動していたかもしれないし、少し開いた窓の隙間から漏れ出た音に、心惹かれた人もいるだろう。
音楽は楽譜に書かれ、演奏され、いつしかレコードに溝として、テープに磁気として、今ではパソコンで電子データとして、様々な媒体と人の評価を通じながら、新たな聴き手を求めて音は旅を続けていく。そして聴き手の頭の中で、新しい世界を築き上げるのだ。
その様に、込められた思いは一つでも、展開の仕方は沢山あって、聴き方によって、人によって、バラバラでいいと思うし、またその人によって違う印象を、楽しく話し合えたらとも思う。
およそ五千枚のレコード(とCD)が納められた棚をみていると、世界にはこんなに沢山の曲があるのかとただただ思わされた。いやもっと沢山あるわけだ。冷静になってみれば、それは当たり前のことなわけだけれど、新しい環境に身をおくと、当たり前のこともどこか新鮮に思えてくる。もっともっと、クラシックを聴きたいと思わせられた、そんな一日だった。